ゼロ戦の強さの秘密
ゼロ戦とは
ゼロ戦。なんとなく誰でも聞いたことのある飛
行機ですよね。
でも、ほとんどの人は「特攻」に使われた悲劇
の飛行機として記憶しているかもしれません。
ゼロ戦は、1940年昭和15年。神武天皇か
ら数えて皇紀2600年にあたることから、下
二けたの零をとって、零式艦上戦闘機として海
軍に採用された艦上戦闘機です。
艦上戦闘機とは、航空母艦から離発着できる飛
行機のことです。艦上機には、他に、爆弾を急
降下で透過する艦上爆撃機と、魚雷を発射でき
る艦上攻撃機があります。
開発したのは、三菱重工業。
アニメ「風立ちぬ」で登場した堀越次郎技師が
開発を担当した戦闘機です。
この戦闘機は、当時の海軍からの無理難題な要
求を詰め込んだ最新鋭の機体でした。
3000キロに及ぶ航続距離、最高速度時速5
00キロ以上。優れた格闘性能と7.7ミリ機
銃(700発)2挺、20ミリ機銃(60発)
2挺という重武装を海軍は要求。
国産で戦闘機用エンジンでは、1000馬力弱
のエンジンしかない中で、極限まで軽くした機
体と空力性能が、それらを実現しました。
まだ試験段階だった(名称は12試艦戦)ころ
中国戦線に送り込まれ、テストを兼ねて実戦投
入され、1940年9月に、中国空軍のソ連製
戦闘機、イリューシン15、イリューシン16
の合計33機と零戦13機が空中戦をし、中国
空軍機27機を撃墜するという圧勝でセンセー
ショナルなデビューを成し遂げます。
この零戦は、実にスタイリッシュで美しい機体
で、空力性能が非常に高く、新人パイロットで
も安定して飛行出来る良い機体でした。
ただ、防弾燃料タンクやコックピッドの防弾版
や、自動消火装置などは、一切省かれ、急降下
性能も制限があるなどの脆弱な一面もありまし
た。(海軍もそれを要求しなかった)
しかし、当時の日本のパイロットは、新進気鋭
のベテラン揃い。なので「当たらなければ(敵
の弾に)どうということはない」と豪語するだ
けの技量を持っていました。
実際、日米開戦中盤までは、ゼロ戦は、無敵と
言って良い活躍をしています。
あまりの損害に、アメリカ軍は、自軍のパイロ
ットに次のようなアナウンスをしています。
1.ゼロ戦と格闘戦は、しないこと
2.背後をとれない場合、時速300マイル以
・・下で空中戦をしないこと。
3.上昇中のゼロ戦を追尾してはいけない。
戦争という究極の次元で、戦ってはいけないと
いうのは、異例中の異例です。
それだけ、ゼロ戦は、強かったのです。
敵は、1000機以上いる?零戦の強さ。
太平洋戦争初頭から中盤にかけて、その能力を
如何なく発揮したゼロ戦。
その中でも、日米が激戦を繰り広げたソロモン
諸島のラバウル。
ここには、日本軍の前線基地がありました。
東から西に、島伝いに反撃したい米軍ですが、
ラバウルにいるゼロ戦が足止めします。
連日の様に米軍は、爆撃機を送り戦闘機も派遣
しますが、ことごとくゼロ戦に阻止されてしま
います。
第201海軍航空隊の記録によると戦果は、撃
墜数450機(日本側判断による)と言われま
す。陸軍の部隊の撃墜数を合わせると、もっと
撃墜されています。
米軍は、ラバウルには、1000機以上のゼロ
戦が配備されていると判断して、圧倒的な工業
力にものをを言わせて連日多数の航空機で攻撃
を繰り返します。
この頃は、日本側は、エースパイロット揃いだ
ったので、戦果が上がります。
日本で通算撃墜数ナンバーワンの岩本徹三(2
02機撃墜)も、ラバウルで撃墜数を稼いだと
言われます。
因みに世界の空軍では、5機撃墜できて初めて
エースと呼ばれます。なので、5機どころか、
数十機撃墜クラスの猛者が沢山居たラバウル航
空隊は次々と戦果をあげます。
参考までに、日本のエースは、どのくらい居た
のでしょうか。
あくまで個人撃墜のみで公表のみを信じた場合
なんですが、海軍航空隊のエースだけでなんと
177人も居ます。
彼らが撃墜した総数は(注:ゼロ戦だけではな
いが)2860機。
広い太平洋や大陸で戦ったにしては、多い撃墜
数となります。共同撃墜や、撃破を含めると、
数字は無いのですが、相当の連合軍機数を撃墜
していることになります。
米軍の想像(1000機)のゼロ戦は、本当に
ラバウルにいたのでしょうか?
いえ、現実は、30機~多くて100機前後の
機数で戦っていたのです。
物量にモノを言わせて攻めてくる米軍。
パイロットの技量頼みの日本軍。
有名なガダルカナルの消耗戦が、始まる頃にな
ると、流石のベテランたちも、櫛の歯が抜ける
様に、一人、また一人と減っていきます。
そして、米軍は、次々と2000馬力級の新型
機も投入してきます。
日本のゼロ戦も、改良型が本国から送られてき
ますが、所詮、軽量な機体に無理した装備だっ
たので、次第に劣性に立たされていきます。
ゼロ戦は、当時日本の技術の結晶
太平洋戦争中盤から終戦にかけてのゼロ戦は、
未熟なパイロットの為にカモの様に撃墜され、
しまいには、本来の任務とは、違う爆装して敵
艦に体当たりする特攻機というイメージが、一
抹の哀愁を帯びて弱い印象だけが残ります。
しかし、デビュー当時は、間違いなく世界一級
の性能を持つ戦闘機でした。
では、そんなゼロ戦の詳細を見てみましょう。
まず、エンジンですが、中島製(現スバル)の
「栄」エンジン。これは、空冷星形14気筒の
エンジンで、米国プラットニー&ホイットニー
社のエンジンを基に設計されたものです。
当時としては、小型軽量で信頼性のあるエンジ
ンでした。
特に、特色としては、宙返りや背面飛行しても
エンストしない特殊なキャブレター(ガソリン
を気化してエンジンに燃料を送る装置)
このおかげで、ゼロ戦は、米軍機には出来ない
様な小回りや曲芸飛行を可能としました。
その他にAMCという燃料の濃さを自動調節す
る装置など、燃費や空戦時のパイロットの負担
を軽減する日本独自も装置も装備されていまし
た。
また「栄」エンジンは、整備性もよく、ゼロ戦
の稼働率の向上に一役買っていました。
プロペラは、住友ハミルトン可変ピッチプロペ
ラといい、高速時と巡航時で角度を調節できる
もので燃費に大きく関係します。
機体は、当時最新の超々ジュラルミン。そして
パーツのつなぎ合わせは、空気抵抗が少ない表
面が平らになる枕頭リベットを使用して滑らか
な機体に仕上げています。
そして、操縦系は、ゼロ戦の持ち味である低速
時は、軽く、高速時は重くなる剛性低下方式を
用いり軽快で安定した独特の操縦感覚を実現し
ました。
武装は、イギリス、ヴィッカース社製の7.7
ミリ機関銃のコピー97式7.7ミリ機銃を胴
体機首に2挺装備。
因みに陸軍機も同じヴィッカース社のコピー品
の89式固定機関銃ですが、陸海軍で使用する
弾丸が違い互換性は、ありませんでした。
今に続く、縦割り構造の致命的欠陥です。
翼には、スイス、エリコン社製のライセンス生
産した99式1号20ミリ機銃。これは、炸裂
弾を発射するので、小型機なら数発で致命傷を
与える威力のある機関砲です。
そして、それらの武装の照準器は、試験輸入さ
れていたドイツの航空機ハインケル112に搭
載されていた光像照準器(現代のヘッドアップ
ディスプレイみたいなもの)をコピーしたもの
を搭載。
その他に、航空母艦や基地に帰る方向を知る為
のアメリカ製のクルシー無線帰投方位測定器な
ど当時の最新鋭の技術がギュッと詰め込まれて
いました。
なんだ、それじゃ純国産じゃないじゃないかと
思う人も居るかもしれませんが、現代でも兵器
に限らず、世界中の優れたパーツや製品をライ
センス生産や特許使用料を払って様々な製品が
作られています。
つまり、ゼロ戦も、それら世界中の優秀な技術
と、日本独自の機体でコラボレーションされた
優れた工業製品だったのです。
第一、ライセンス生産にしてもコピーにしても
コピー出来る技術が必要です。
戦時中は、世界中が、優れた技術をコピーしま
くっていました。
しかし、コピー技術が無ければ、技術を真似す
ることも敵いません。
そういう意味では、当時の日本は、オリジナル
に100%真似できなくても一定の性能でコピ
ー出来る技術の裾野があったという事です。
惜しいのは、無線技術です。
用兵側(海軍)が、それを要求していなかった
事が問題なのですが、ゼロ戦に高性能な無線電
話(トランシーバー)が搭載されていれば、も
っと違った戦い方が出来たし、中盤以降の被害
も、もっと抑えられたかもしれません。
良好な無線交信が出来るようになったのは、戦
争終盤になってからです。陸軍のほうが、無線
は、進んでいたのですが、当時は、海軍と陸軍
は、縦割り社会で技術供与や提携なんてしてい
ませんでした。
その点は、現代の官僚組織と似ています。
ほんと、失敗に学ばない悪いクセです。
ゼロ戦のアクロバット飛行
ゼロ戦と言えば、空中戦に強い!
ドッグファイトに持ち込めば、アメリカの新鋭
機ですら敵わない軽快性です。
目の前にゼロ戦を捉えててもイザ射撃という場
面で、フッとゼロ戦が消える。そして、気づけ
ば真後ろに来ている。
ベテランパイロットが操縦するゼロ戦は、まる
で魔法の様な飛び方をして、アメリカ軍のパイ
ロット達に恐れを抱かせました。
捻りこみや巴戦など、ゼロ戦は、特有の運動性
能で、米軍機を翻弄しました。
通り過ぎざまに一度に3機を撃墜した猛者もい
るくらいゼロ戦の軽快さは身軽でした。
特に小回りが利くので、後ろにさえ注意してい
れば、そう簡単に落とされることはありません
でした。
あと、まっすぐ飛んでいるように見せかけて、
微妙に斜め前に飛ぶ様な機動も出来、後ろをと
られても、機体を横滑りさせれば敵の射撃をか
わせる特性もありました。
私も、茨城県の竜ケ崎飛行場で、現存するオリ
ジナルの「栄」エンジンを搭載したゼロ戦の飛
行を見たことがあるのですが、短い滑走距離で
フワリと離陸し、小回りの利く旋回に驚きまし
た。もっとも、70年以上前の飛行機ですから
軽く、優しく飛ばしただけなのですが、その片
鱗を見せつけられた気がしました。
ゼロ戦の驚異としては、戦争終盤の硫黄島での
酒井三郎氏の空中戦です。
この時の、酒井氏は、ガダルカナルの空中戦で
負傷し右目が利かない状態での空戦でした。
この頃のゼロ戦は、新米パイロットが多くなり
米軍にとっては、カモでした。
不利な条件で、米軍最新のF6F戦闘機5機に
追撃され、軽快な運動性で、次々と射撃をかわ
し、ついに逃げ切ったということです。
この時、基地に戻った酒井氏の機体には、機銃
の弾丸は、一発も当たっていませんでした。
このように、戦争終盤でも、ベテランパイロッ
トが操縦すれば、落とせなくても落ちない飛行
機でした。
歴史に、イフは無いといいますが、もしゼロ戦
が、初めから防弾装備を装備し、無線が調子よ
く、エンジンも1500馬力以上で、ガソリン
のオクタン価が高かったら、想像を絶する無敵
振りを発揮したのではないでしょうか。
いえ、オクタン価は、ともかく、無線装置など
は、陸軍と協力体制にあれば、簡単に改善でき
ました。他にも、防弾装備は、陸軍機のほうが
優れていました。
日本が、近代戦は「総力戦」であることを理解
していれば、陸海軍共に、技術供与や情報交換
を密にしていれば、もう少しまともな生産や戦
い方ができたのではと思います。
まとめ
戦争の是非は、ともかく、優れた兵器というの
は、極限まで無駄をそぎ取った究極美にたどり
着きます。
ゼロ戦は、最後には、敵艦に体当たりする特攻
の悲劇の機体となりましたが、その優秀な空戦
性能は、後世まで語り継がれ、海外では、ゼロ
ファイターとして人気があります。
米軍のパイロットへの質問でも「ゼロとは、戦
いたくないね」と賛美されています。
極限まで軽量化され、空気抵抗を減らした機体
は、現代人が見てもスタイリッシュで美しさす
ら感じます。
それは、昔の侍の様な潔い鋭い切れ味を持って
います。
総生産数は、バージョンアップ8種類で、合計
1万425機と日本軍中最多。この他にゼロ戦
をベースにした二式水上戦闘機も327機生産
されたベストヒット商品でした。
惜しむらくは、海軍の人命軽視。もし、ゼロ戦
が、もう少し頑丈な作りで、無線設備も完璧な
ら戦争の行方は、どうなったのでしょうか。
終戦間際でも、生き残ったベテランパイロット
に恐れをなしたアメリカ軍です。もし、ゼロ戦
が、もう少し人命重視の発想で設計されていた
ら、終盤戦の戦いは、もっとマシになっていた
のではと思います。