古墳時代の謎。古墳時代は、平和だった?

古墳時代は、3世紀の終わりころから7世紀の
終わりころにかけての約400年間。
新しくは、飛鳥時代にかけて古墳は、築造され
ました。

日本各地、遠くは北海道まで、いたるところに
古墳が、作られました。

平野部の小さな森が実は、古墳だったり、住宅
地の中にポツンと小さな古墳があったりと、見
渡す限りどこにでも古墳は散見されます。

この古墳、何の目的で造営されてきたのでしょ
うか。謎を探ってみたいと思います。

 

古墳の数は、約16万基!

全国に散らばる古墳の数は、大小含めてなんと
約16万基!

もしかして、これも古墳かも、なんてこんもり
した森を見ると思うくらいです。

日本一多いのが兵庫県で、18,851基。

2位が、鳥取県で、13,486基

3位が、京都府で、13,016基

4位が、千葉県で、12,765基

5位が、岡山県で、11,311基

その他合わせて合計、159,636基

奈良、大阪がベスト5に入らないのは、意外な
感じがします。

これは、平成28年度の調査結果で、新たに発
見されたものは、含まれていません。
まだまだ埋もれた古墳が、日本中に眠っている
のだと思います。

しかし、それにしてもすごい数です。

これは、現代のコンビニの数のざっと3倍。
因みに、コンビニの数は、以下の通りです。
(2022年1月現在)

セブンイレブン(21,031件)

ファミリーマート(16,348件)

ローソン(13,812件)

ミニストップ(1,932件)

セイコーマート(1,163件)

その他(2,650件)

合計で、56,936件

正確にいううと古墳の数は、コンビニの2.8
倍です。すごい数です。

古墳時代の400年間で割ると、平均して年に
400基もの古墳が作られていたことになりま
す。

埼玉県の吉見百穴みたいな横穴式古墳の場合は
規模も小さいのですが、日本各地に有名な前方
後円墳や円墳があります。

埼玉県の由来となった埼玉(さきたま)古墳群
も有名ですね。

天皇陵の他に、各地の豪族が、こぞって古墳を
築造しました。
有名な蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳も古墳
ですし、厩戸皇子(聖徳太子)も古墳に葬られ
ました(叡福寺北古墳)

未発見の古墳もまだあると思うので、実際には
もっと多くの古墳があるはずです。

古墳が、築造されなくなったのは、645年の
大化の改新の後、薄葬令によって作られなくな
りました。

古墳が作られなくなったのは、仏教の伝来も深
く関連しています。
でも、仏教の伝来を奨励した蘇我馬子や厩戸の
皇子も古墳なのが、ちょっと不思議な気がしま
す。

 

古墳の作り方

全国各地にある古墳ですが、大きなものは、2
019年7月に、世界文化遺産に登録された百
舌鳥(もず)・古市古墳群ー古代日本の墳墓群
に代表される前方後円墳。

その中の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は、5世紀
前半から半ばにかけて築造されたと言われてい
ます。ただ、副葬者が本当に仁徳天皇なのかは
確定していません。その点は、ギザの大ピラミ
ッドと同じかもしれませんね。

ギザの大ピラミッドも、本当にクフ王のものな
のか、はっきりしていません。
副葬者が、はっきりしないので、元々仁徳天皇
陵と呼んでいたものを大仙陵古墳と言い換えた
そうです。

大仙陵古墳は、濠を含めた墓域としては、世界
最大です。
築造当時には、三重の濠に囲まれていましたが
外側の濠は、埋没し、明治政府が再掘したそう
です。

全長が486メートル。高さ35メートル。敷
地面積47万平方メートル。
昔は、遠く大阪湾からも見えたと思います。

その作り方は、まず平地を開墾し、濠を掘り、
水を溜めて水平を取ります。
そして、その水平に長い縄を張って、後は、設
計図通りに人海戦術で、せっせと土を盛り上げ
ていきます。
この段階で、棺を入れる石室も作ります。

形ができたら、今度は、仕上げの石を表目に葺
いていきます。その数は、約536万5千個に
のぼります。
それらの石は、完成当時は、太陽に反射してキ
ラキラと輝いて見えたことでしょう。

古墳が完成したら後は、埴輪(はにわ)を飾り
付け石室に埋葬して蓋をして完成です。

この工事には、1985年に株式会社大林組が
試算した結果、古代の工法で、1日2千人、述
べ681万人を動員して、15年8ヶ月。

週一休み(当時は休まなかったかも)1日8時
間で、1日数千人にのぼる人を管理するには、
高度な管理、統率能力を必要とします。

そこには、大集団に毎日供給する食糧や炊事設
備も入ってくるので、工事現場は、さながら町
の様相だったのでは、ないでしょうか。

そして、埴輪1万5千個を入れて、現在の価格
で合計856億円かかるそうです。

国家規模の一大プロジェクトです。

当時の土木機械もない時代、気の遠くなる様な
地味な作業で古墳が築造されていたことは、凄
いことだと思います。

 

古墳建造競争が戦争の代わりになった?

古墳時代の約400年という期間は、短い様で
長いものです。

実は、古墳時代には、謎の歴史の空白期間があ
ります。中国の史記にも載っていない謎の期間
日本では、何をしていたのでしょうか。

天皇陵が造営されているので、指導者は、居た
はずです。そして、各地で古墳が作られていた
ので、全国に有力な豪族が居て、各地を支配し
ていたはずです。

卑弥呼の時代は、度々部族間の争いが起きてい
た様ですが、弥生時代後期から古墳時代に入る
と、部族集団に分かれながらも、一旦争いが収
まった感じです。

あくまで推測なのですが、農業もある程度安定
し、食糧の備蓄技術も進み、略奪の必要がなく
り、争わなくなったのではないでしょうか。

その根拠に「古墳」があります。

先に紹介した仁徳天皇陵は、別格としても、古
墳作りには、大量の人員と物資の輸送、そして
人の管理とお金(当時は、お金はないけど)が
掛かります。

多くの人員を整理して働かせるには、高度なマ
ネジメント能力を持つ集団の存在が欠かせませ
ん。戦う兵士より、そうした管理する人のほう
が多かったかもしれません。

もし、戦争なんかしていたら、古墳作りなんか
している暇は、ありません。

ヤマト王権(朝廷)が、勢力を拡大している時
期も、この頃なんですが、戦乱で拡大していっ
ている感じでは、ありません。

朝鮮半島には、軍勢を送り戦っている様ですが
日本国内では、小競り合いは、あっても日本中
を巻き込むような大乱の様な戦は、発生してい
ませんでした。

戦闘の記録は、528年の九州での磐井の乱、
587年、物部氏と蘇我氏が戦った丁未の乱(
ていびんのらん)くらいのものです。

各部族間で、平和裏な技術交換もあったはずで
す。その証拠が、前方後円墳なのどの流行りの
古墳が、各地で見られることです。

もしかすると、古墳作りのプロフェッショナル
集団が居て、各地を回り築造を監督管理をして
いたのかもしれません。

この時代は、推測なのですが、各地の豪族が、
競い合う様に古墳を築造して富を競い合ってい
たのではないでしょうか。

古墳を作るのは、先に述べたように高い技術力
と人員動員力が必要です。
つまり、古墳が大きければそれだけ人員を動員
出来る=兵力も多い。その図式でいけば、大き
な古墳は、抑止力として君臨していたのではな
いでしょうか。

古墳の大きさや数が、各地の豪族の力を示すパ
フォーマンスを発揮していたと思います。

 

朝鮮半島にもあった前方後円墳

前方後円墳は、日本独自の墳墓形式です。

よく、ユダヤの三種の神器「マナの壺」に似て
いるから、前方後円墳は、ユダヤの末裔(失わ
れた12氏族)が渡来して作ったなんていう伝
説?も聞きますが、あの形は、日本古来の太陽
信仰を具現化したものではないかと思います。

なので、朝鮮半島で前方後円墳が見つかったか
らといって、前方後円墳のルーツが半島にあっ
たというのは、年代的にも間違いです。

話しが横道にそれましたが、その前方後円墳が
なんと、朝鮮半島にもあるのです。

場所は、半島南西部。築造された年代は、5世
紀後半から6世紀前半にかけて。今のところ、
10基ほどの存在が確認されています。

その大きさは、百済(くだら)王の墓より大き
いものでした。

ここは、百済という国があった地域で、ヤマト
王権とは、交流の深い国です。
被葬者は、在地の首長、倭国(倭国・日本)の
百済管人、倭人と3説ありますが、はっきりし
た事は、わかっていません。

ただ、埴輪や石室の形状、古墳の形から、日本
の慣例を踏襲していることは確実です。

海を渡り、半島まで広がった古墳文化。

当時の朝鮮半島には、ヤマト王権の勢力が、広
がっていたのかもしれません。

朝鮮半島は、中国と地続きなので、文化や技術
が、半島を超えて日本に流入します。
そして、当時の最重要な戦略物質の「鉄」の産
地でもあります。

日本が、ここに侵略していたとは、考えづらい
と思います。なぜなら、規模は日本より小さい
とはいえ、手間と費用と期間がかかる前方後円
墳を築造する余裕があったからです。

もし、侵略なら、優雅に綺麗な古墳を作ってい
る暇なんかありません。

この当時は、中国は、数十年単で王権が変わる
激しい戦乱の世の中です。
歴史を紐解くと、一目瞭然。この頃の中国は、
とても一口で語れない複雑な歴史です。
日本も、朝鮮半島で、新羅(しらぎ)や高句麗
(こうくり)と戦っていますが、侵略というよ
り利権確保の戦争だったようです。

が、朝鮮半島南西部は、比較的穏やかだった感
じがします(倭国の勢力が強かった地域)

 

まとめ

古墳時代の始まりは、日本史の中では、空白の
4世紀と呼ばれ、何をしていたのかよく解らな
い時期です。

朝鮮半島の記録では、たびたび倭国の軍勢が攻
めてきたと記されています。

しかし、日本国内では、日本全土で古墳作りが
盛んに行われていました。

このことは、日本国内では、戦乱が起きていな
かった事を如実に語っています。

また、日本では、奴隷制度が無かったので、奴
隷を酷使して築造したのではなく、民衆が進ん
で古墳事業に参加していたこともあり、米を給
料代わりに貰っていたのは、ピラミッド時代に
パンとビールを支給されていたのに似ていて面
白い類似点だと思います。

なので、古墳時代は、その数から、比較的平和
だった時代だったのではないでしょうか。